配置薬について

配置薬の歴史(2)

きっかけは江戸城腹痛事件

 1690年に江戸城内において腹痛をおこした三春城主の秋田輝季に富山藩主前田正甫が合薬富山反魂丹(はんごんたん)を服用させたところ、秋田輝季の腹痛が驚異的に回復した江戸城腹痛事件という逸話がある。このことに驚いた諸国の大名が富山売薬の行商を懇請したことで富山の売薬が有名になり、また「先用後利」を基本とする現代の医薬品配置販売業の基礎を作ることになった。安静7年(1860年)2月「国中組合取極連印帳」という仲間規約をつくり、幕府の方針に沿った業態にするため「南都薬種取締所」の指導のもとに商売秩序の維持発展のために、米田丈助を筆頭とした77名の業者で作り上げた。また慶応2年(1866)7月、72名の大和の業者は、越中国富山の総代3名、加賀領総代2名との間で、話し合いって15ヶ条におよぶ議定取締書を作成した。

全国への発展

「組合取極連印帳」の要点
一、 公儀の言われることを守り、南都薬種取締所の規定に反しないこと。
一、 薬の原料売買は値段を守って規定どおりとし、不正な売買はしないこと。
一、 斤目が不同のものが多いので京大阪の定法どおりに調整し、一斤は二百匁とすること。
一、 人参その他にニセものが多くなった、人命にもかかわるので、見つけたら年行司惣代に届け出ること。
一、 他国の医家へ薬種を売り込んではならない、又他国から来て医家その他へ売ってはならない。
一、 薬種株や合薬株にて産地で直接買い入れ、他国へ出荷などしないこと。
一、 組合仲間以外の者などを使って和薬種を買い集めさせないこと。
一、 合薬仲間は薬のほか染料、絵能具、香具、砂糖を売って商売しているが、そのため仲間の差支えにならぬこと。
一、 合薬仲間は、同じ銘柄や紛らわしい薬を差控え、他の薬を誹謗したり、値下げ競争をしないこと。
一、 奉公をやめた者、年季をすませた者は、先主と話合ってから傭うこと。奉公人が心得ちがいで持ち出した品物とわかったら、その主人にしらせること。
一、 薬種札を譲り受けたら、行司に届け出て、仲間振舞料二両を年行司に出すこと。
一、 薬種の売掛代銀不払いの向きあると、仲間へ知らせ、勘定がすむまで互に商売を差し控えること。
一、 年行司の費用として薬種屋は銀五分、和漢屋、合薬屋は二分五厘をだすこと。
右の條條一同で取極めた以上は、必ず守り、取引し、不作法の者は取締所へ申し出て、仲間から除名されても異議を申し立てず、一同で協定書に連印した。
安政7年2月
  葛上郡今住村

大和と富山の業者の議定書「議定取締書」
一、 近年薬種、紙、米、運送、宿料など高くなったので、薬も三割値上げすること。
一、 不正薬種、毒になる薬は決して扱わぬこと。
一、 同じ銘柄の薬でも文字や筆法をかえ、紛らわしくしないこと。
一、 薬は人間の病苦を救うものだから、大切に調合すること。
一、 値引き、誹謗を謹む。もし心得違いの者あれば確証をつけて申し出ること。
一、 得意先へあとから行き、値引きして売り込むことは絶対にしないこと。
一、 重ね置きになったとき、他人の薬をけなし、自分の薬を自慢してはならない。
一、 やめた奉公人、暇を出された奉公人は、先主にことわってから使うこと。
一、 奉公人の賃銀は、一か年につき上級で銀五百匁、中級で三百五十匁、下級で二百匁と定めること。
一、 他人の空の薬袋を引きあげ、自分名の薬袋を入れるようなことは決してしないこと。
一、 旅先で酒色におぼれ、博打をする者を見つけたら、意見し、聞き入れぬ者は帳面荷物を取り上げ国元へ送ること。
一、 宿で急死、急病などがあると、近くで見聞きした者は馳せつけ、世話をすること。
一、 定宿では、原則として同部屋のこと。
一、 右の仲間規定をした上は一年に一回は参会する、不参加の者も一様に費用を負担すべきだ。他国へ出て、心得違いして一か条でも約束違反があれば、取締所へつき出し、取締ること、右の費用は不法人から弁済される。
仲間一同取締議定書をつくり、連印した。
慶應2年7月29日
以下七十七名の署名捺印

大和の署名捺印者72名は、全員が国(藩)外で配置売薬に従っていた業者である。富山、加賀領(越中国の加賀藩領のこと)の5人は、いずれも越中売薬の代表であって、協議のためわざわざ呼び寄せたもの。
このように江戸時代末までには富山、奈良、滋賀、佐賀、岡山の売薬もかなり業として整備され全国的に広がりを持つ業に発展していた。

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