配置薬について

配置薬の歴史(3)

先用後利

 売薬から発生した概念である「先用後利」という言葉とそれに拠って成り立つサービスシステムである医薬品配置販売業、そのもとである「先用後利」とは、「用いることを先にし、利益は後から」とした富山売薬業の基本理念である。江戸元禄期の創業時代より現在まで脈々と受け継がれてきた。富山藩二代目藩主前田正甫公の売薬に対する訓示「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ。」と伝えられる。これは、創業当時既に全国に広まっている売薬の市場に新たに藩の事業として市場に入り込むには、他の既存の売薬と同一視されない新たな販売戦略を持たなければならなかった。

 当時はおよそ200年にわたる戦国の騒乱も終わり江戸幕府および全国の諸藩においては救国済民に努め、特に領民の健康保持に力をいれた。しかし、疫病は度々起こり、医薬品は不十分な状態であった。医薬品販売も室町時代から続く売薬はあっても、店売りは少なく、薬を取り扱う商人の多くは誇大な効能を触れ回る大道商人が多くいた。また、地方の一般庶民の日常生活では貨幣の流通が十分ではなかったようで、貨幣の蓄積が少ない庶民にとって医薬品は家庭に常備することは希であり、必要に応じて商人等から購入せざるをえなかった。

 この様な社会背景の中、医薬品を前もって庶民の手近に預けておき、必要に応じて使ってもらう、そして薬の代金は後日支払ってもらう「先用後利」の方法は、画期的サービスシステムとして時代の背景に合い、要望を引き起こした。
 当初はそれぞれの地域地区の纏め役世話役の家、寺等に預け、次第に一般の家庭に預けるようになっていたようである。江戸時代における配置販売業者はただ薬だけを扱うのではなく、訪問先の産物を他の地域に、また他の地域の産物を訪問先の地域に紹介する。また産物だけでなくいろいろな地域の様子や情報を提供することを主な業にしたようであり、例として富山の売薬業者が薩摩藩へ入国を許され、その経緯などがよい例なると思われる。当時の売薬業者は、現代の総合商社のような業をする大規模な業者も存在したのである。

薬事法制定

 明治に入り西洋の医学(西洋医学)が主流になり、今まで永年にわたり我国で育った漢方医学は国の政策として否定廃止され売薬業も非常な苦境に立たされた。1886年頃輸出売薬を開始し、明治の末から大正にかけて輸出売薬は大きく伸び、中国・アメリカ・インドなど数多くの国と交流があった。大正の初めがピークに達し、日貨排斥運動が活発だった中国市場の8割が輸出売薬で占められていた。

 この動きによって薬種商は、大規模な製薬メーカーへ、また西洋医学に合った医薬品を製造し、医者や販売業者に卸す業者、店舗を構えて庶民に販売する業者へ行商形態からの移行が大きく起こった。20世紀に入ると売薬に関する制度や法律が次々と整備され、1914年に売薬の調整・販売ができる者の資格・責任を定めた「売薬法」が施行、1943年品質向上確保のため医薬品製造はすべて許可制とする「薬事法」となった。

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